2014年6月9日月曜日

1939『モダン日本』朝鮮版

戦前は横書きの場合、全部、右左書きなのかと思ったら、
宣伝広告のところには、今と同じく左右書きもあってびっくりした。
今までぼんやり見ていて気付かなかったのだ。


韓国は新聞の縦書きが21世紀消滅してしまった。PCの普及からそういうことになってしまったようである。
日本は出版業界の組版権(?)、その他の要因でまだまだ人文系の縦書きが健在である。
というわけで、新聞もほとんどが縦書き、なかなか変化しないところもある。


出版業界の組版権についていえば、
大原ケイ『ルポ電子書籍大国アメリカ』(アスキー新書164)p176-177で、
<「守るべき文化」とはどうやら縦書きで日本語の組版のことを指すらしい。
 「守るべき日本の出版文化」などというものは実のところ自分たちの既得利権にほかならない。>
と主張しているが、どうもこの版権が、縦書きが長らく残っている理由の一つなのであろう。


2014年5月22日木曜日

悲劇の一日

「個研費の 入力後には フリーズし 水の泡となりにけるかな」
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ほかのサイトは正常なのに…

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2014年5月18日日曜日

日本人にしか通じないメンタリティ

日本人にしか通じないメンタリティ  小林信彦『東京少年』読了。  太平洋戦争末期に、東京から埼玉、そして新潟へ疎開した少年を描いた、この自伝的小説を読んで思ったのは、それから70年近く経ち、「民主主義社会」になって半世紀以上が過ぎても、日本人の非合理的というか非科学的なメンタリティ(心的傾向)は変わっていないんだな、ということだった。  たとえば、1945年、つまり昭和20年、敗戦の2ヶ月前の報道は、この小説では以下のような状況だったと説明されている。  六月に入って、<本土要塞化>の叫びは、ますます高くなった。  二月の新聞は<山川草木総て堅塁>と呼びかけた。<一人百殺>を念じれば、本土での決戦は必ずしも敗北にはならないという趣旨の文章がついていたが、何度読み返しても、意味がわからなかった。  十日には、<本土決戦、我に有利、断じて戦い抜け>という鈴木貫太郎首相の施政方針演説を報じていた。  小林信彦は、エッセイでも小説でもウラを取る、つまり客観的事実を重視する作家なので、これらの新聞報道は事実なのだろう(ちなみに当時、彼の家が取っていたのは「朝日新聞」だという)。  それにしても、小説の主人公同様、自分も「<一人百殺>を念じれば、本土での決戦は必ずしも敗北にはならない」とか、「本土決戦が(日本にとって)有利」というのは、どう捉えても意味不明である。(ちなみに文中の鈴木貫太郎首相は、「終戦工作」をしたということで評価されている人である)  このくだりを読みながら、つい連想したのが、例の「(福島第一原発からの放射能)汚染水は港湾内である0.3平方キロ内で完全にブロックされている」という、安倍晋三首相のオリンピック招致スピーチである。  自分はリアルタイムで発言を聞かなかったが、あぜんとした。野田前首相の「原発事故は収束した」発言以上に、意味がわからない。  世論調査では、あの発言に違和感を抱いた日本国民は60%強だったということだが(残りの40%近くは違和感を持ってない、ということもすごいが)、安倍首相自身は発言を訂正するどころか、重ねて「ブロックされている」と強弁しているそうだ。  ところが当の東京電力は、汚染水は一年半以上も前から、海に放出され続けていることを認めている。  安倍首相の言葉が正しいとすると、一年半もの間、汚染水に含まれる放射性物質(セシウム、ストロンチウム、トリチウムなど)は、「何か特別な事情」で、特に遮蔽もされていない港湾の外に出ていない、ということになる。  もちろん、そんな「特別な事情」はない。あるのは、「港湾外に出ていなかったらいいなあ」という願望だ。  70年近く前の「本土決戦が有利」というのも、「そうだったらいいなあ」という願望だ。  ひとりの人間として願望を抱くのは勝手だが、国を司る政治家が現実を直視せず、願望を口にして物事が収まるなら、誰だって首相になれる。  自分は子どもの頃、「竹槍でB29と戦う」とか「風船爆弾を飛ばしてアメリカ本土を焼き尽くす」といった、太平洋戦争時のいろんな話を本で読んだりして、「戦前・戦中の日本人って頭がちょっとおかしいか、ものすごく未開人だったのかな」と感じ、「それに比べたら戦後の日本は、文明的にもすごく発達したんだな」と思っていた。  ところが、福島第一原発の事故以降、テレビに出てくる政治家や原子力ムラの人たちの発言を聞いていると、どう考えても理屈に合わないような言葉が大手を振って歩いている。果ては安倍首相が全世界に向けた、「汚染水はブロックされている」「健康被害は今までも現在もこれからもない」発言だ。  今、日本人がヨーロッパやアメリカに行くと、「日本人は安倍首相の言うことを信じているのか」「なぜ日本人は安倍首相の発言を糾弾しないのか」などと詰問されるという。  それは当たり前だろう。たとえば中国が原発事故を起こし、汚染水を垂れ流しておいて、中国政府が「完全にブロックされている」と発表したら、日本人は今以上に中国を責め立てるはずだ。もちろん、近海の水産物はすべて輸入禁止の措置を執るだろう。  自分も、外国の人と同じく、どう考えても理屈に合わない、つまり虚偽の発言を繰り返す安倍首相が、なぜもっと野党や政府内からでも批判されないのか、さらに安倍首相を支持する日本国民が、なぜいまだに多いのか、さっぱりわからない。  まあ、自分も会社勤めを経験して、短時間に集中して仕事をやり終える人間よりも、意味のない残業をだらだらする人間が評価されるという、この日本社会というものの理不尽さ、非合理さは知っていたつもりだったが、それはあくまで日本社会の中だけで通用する、閉鎖的メンタリティである。外国には決して通じない。  そういう、どう考えても理屈に合わない=合理的に説明できない、「日本人にしか通用しないメンタリティ」を、日本人はずっと持ち続けていること、そしてその危うさに、我々日本人は一人でも多く、早く気づくべきだと思う。

2014年4月30日水曜日

『たかが英語』- グローバル化

「現在の受験英語は、日本にしか存在しない特殊な英語だ。 日本にしかない英語の勉強に時間を費やすのは無駄でしかない。 そもそも日本人が作った英語の教材がベストとは限らない。 日本語で書かれた教材が世界で一番優れているのかどうか検討してみてはどうだろうか。 特に最先端の知識は英語でしか得られない場合が多い。 翻訳されるのを待っていては、研究の最前線から脱落してしまうのだ。 そうならないためにも教育そのもののグローバル化が必要だ。」 (三木谷浩史『たかが英語』174-175頁) 英語化のノウハウはオープンにする、データ公開にすることは社会にとって役に立つだろう。 自分の専門分野を英語で語るほど上達するには相当の時間がとられる。 専門以外に時間をとられるのは本末転倒な部分もあるのではないか。 むしろ学生のためのライティングセンターや学術雑誌に掲載する教員論文を 英語に訳してくれる部署が必要ではないかと思われる。 同時に日本に来る外国人にも、英語を含めて最低2か国語ができるバイリンガルで、 かつ日本文化を理解し、発信できるような人材が求められよう。 幸か不幸か、日本では日本語で高等教育が受けられる上に、英語をしゃべれなくても ノーベル賞をとれるような特殊な国である。 でも、それに胡坐をかいていては停滞、矮小化するので、 とにかくアピール力が求められるだろう。

2014年4月1日火曜日

GPA

外国人留学生には必要だと思う。 とりあえず、グローバル化(米国化)ありきな臭いがする。 しかし日本人学生の場合、 日本企業が大学の成績を重視してるかは疑問である。 日本にある外資系企業でも全部成績見ている訳ではなさそうな気がする。 金融システムもそうだけど、 日本の実情に合う形で導入されているのか疑問だ。 苅谷剛彦『グローバル化時代の大学論』 宮田由紀夫『米国キャンパス「拝金」報告』 こういうのみると、うーんと思ってしまったりする。