「英語ができない」と言い訳にして見過ごす真に必要なもの
「スーパー・グローバル・ハイスクール」なるものが、できるらしい。かなり乱暴に直訳すると、「超世界的高校」ってことになるのだろうか?
かっこわる……。いやいや、申し訳ない。だが、見た途端にそう思ってしまったのだから仕方がない。
スーパー・グローバル・ハイスクール構想を打ち出したのは、政府の「教育再生実行会議」(座長・鎌田薫早稲田大総長)。
「徹底した国際化を断行し、世界に伍(ご)して競う大学の教育環境をつくる」ことを目指し、外国語教育に熱心な高校を「スーパー・グローバル・ハイスクール」(仮称)に指定。小学校での英語の導入などを提案し、世界で活躍できる人材の輩出を目指して「今後10 年で世界大学トップ100に10校以上」との目標も定めた。
提言書によれば、「スーパー・グローバル・ハイスクール」とは、
(1)英語教育を重視したカリキュラムを実施している
(2)英語を母国語とする教員を採用している
(3)海外留学に実績がある
などの条件を見たしている高校で、政府が財政的に支援することが検討されるのだという。
「グローバル人材の育成が欠かせない!」
「グローバル人材を輩出する教育を徹底せよ!」
「我が社では、グローバル人材を求めています!」
などなど。
グローバル人材なる言葉は、今や流行語だ。
ちょうと今から1 年半ほど前、「グローバル人材」についてコラムを書いた(関連記事:“グローバル人材”を渇望する企業の見当違い)。
当時、この言葉を使うのは主に企業の経営者だった。かなり乱暴にまとめると、(1)英語が話せなければ仕事にならない(2)ライバルは国内だけでなく、中国、韓国など世界中にいると思え!(3)日本でしか通用しないような人は、もう要らない──の3つが、多くの大企業の経営者や人事部の採用担当の方々が、「グローバルな人材」について述べているコメントだった。
で、今。「グローバル人材」という言葉が、会社から大学、大学から高校、さらには小学校へと波及している。
しかも、「グローバル人材の育成=英語力の強化」となっている。
何かおかしい……。確かに、英語教育は見直した方がいい。何しろ「なんでニッポン人は、中学、高校と6年間も英語を習っているのに、英語が下手くそなんですか~?」と、苦言を呈したくなるくらい、日本の英語教育は使えない。
だから、英語教育改革はやった方がいい。いや、むしろやるべき課題だ。
でも、政府が進めようとしているのは、「グローバル人材がいない」、「グローバル人材の育成ができていない」という社会のニーズ、あるいは企業のニーズに応えるための英語教育改革である。
「徹底した国際化を断行し、世界に伍(ご)して競う大学の教育環境をつくる」――という大名目の下に進められている。
だが、いったいどれだけの企業がグローバル人材を、求めているんだ? そもそもグローバルな人材を育成するって、どういうことなのだろうか?
少なくとも私には、「グローバル人材の育成=英語力の強化」とは思えない。そこで今回は、「グローバル人材の育成に必要なこと」について考えてみようと思う。
まずは、経済産業省が行った「大学におけるグローバル人材育成のための指標調査」の結果から紹介する。この調査では、企業におけるグローバル人材の定義を次のように規定している。
(1) 現在の業務において他の国籍の人と意思疎通を行う必要がある
(2)意思疎通を英語で(あるいは母国語以外の言語で)行う必要がある
(3)ホワイトカラー職(※)の常用雇用者である
※ ここで「ホワイトカラー職」とは、管理的職業従事者、専門的・技術的職業従事者、事務従事者、販売従事者をさす。
この定義に基づき、企業を対象にヒアリングとアンケート調査を行った(実施期間2012年2月、5000社に送付し、回答のあった841社が対象)。さらに、アンケート結果に基づき、独自の手法で企業全体の総常用雇用者数に占める、2017年度のグローバル人材率の平均値なるものを出している。
その結果、2012年時点で、4.3%だったグローバル人材率は、2017年には8.7%と2倍近くに上昇。企業規模別には、「299人以下」の企業が5.6%から7.2%、「300人~1999人」の企業が6.9%から8.7%、「2000人以上」が11.0%から17.8%と、企業規模が大きいほどグローバル人材率が高く、5年後には全体的に高まる傾向にあった。
ちなみに、「どんな状況でも適切なコミュニケーションができる素地を備えている英語力を、入社前に身に付けて欲しい」という企業に限ってみると、2000人以上の大企業で2012年時には26.1%だったものが、2017年には42.9%と半数近くにまで上昇するとの結果が示されている。
つまり、「大企業に入るには、英語力を高めておくことは避けては通れない」とも受け取れる内容だ。
だが、その一方で、グローバル時代における新卒社員に求められる能力はというと、上位3位を、「主体性」「規律性」「好奇心・チャレンジ精神」が占めた。
「2000人以上」の企業に限ってみても、「主体性」が91.3%でトップ。次いで、「好奇心・チャレンジ精神」(90.1%)、「規律性」(81.3%)となり、「TOEIC730点以上相当」を必要としたのは、わずか27.3%。アンケートに提示した17の能力のうち最下位だったのである。
・新卒採用の場合、英語スキル(スコア)を重視しているのではなく、前向きな姿勢があるか、吸収力があるか、打たれ強いか等の資質を重視する。(証券D社)
・語学力が高いことは良いことだが、それ以上に人物をみるようにしている。(消費財A社)
・TOEIC が高得点だからといってビジネスシーンで英語が使えるとは限らない。ビジネスで使う英語力は入社後に研修やOJT で磨くことになる。(電気機器F社)
正直、この結果をみてホッとした。私自身、英語よりも「伝える中身」を持つことの方が重要だと思っていたし、企業の方たちと話すと、海外で仕事経験のある人ほど、「英語ができるに越したことはないが、できるからといってグローバル人材にはなり得ない」と考えている人が多い、という印象を持っていからだ。
と、こういうことを書くと、すぐに、
「何、分かったようなこと言ってるんだ。英語ができないことには、海外で仕事なんかできないぞ!」
「コミュニケーションを取れなきゃ、信頼だってされない」
「スピードが要求される今の世の中で、英語ができないことで失うものの大きさが分かってない!」
などと、口をとがらせる人たちがいる。
なので、何度も書くが、英語ができて悪いことなど1つもない。海外で仕事をするのに英語はできた方ほうが楽だし、いろいろな意味で、最初のハードルが下がる。だが、昨今の英語至上主義は、ちょっと異常だ。
大反発をくらうこと覚悟で、意地悪な言い方をすると、「それって仕事ができないことを、ただただ英語ができないからと言い訳にしているだけじゃないんですか?」などと言いたくなるほど、今のグローバル人材育成の流れは、英語力が特化されて、短絡的になっていないかと思うのである。
米メジャーリーグで活躍した野茂英雄さんは渡米する際に、「ところで野茂さんは英語が話せるんですか? メジャーリーグのベンチで英語が話せないとイジメに遭うかもしれませんよ」と記者から質問された。
それに対して彼は「僕は英語を覚えるためにアメリカに行くわけじゃない。野球をやりに行くんです」と答えた。
そして渡米後、アメリカ人にとって最も有名な日本人になるほど、彼は大活躍した。
世界で使えない人は、日本でも使いものにならない。「日本でしか通用しない人」と思われている人は、実際のところ、日本でも通用していないんじゃないだろうか?
もし、ホントにグローバル人材が日本にいないとするならば、日本中が使えない人たちであふれているか、もしくは、英語がたまたまできないというだけで、グローバル人材という枠からはじき出されてしまっているか、そのどちらかだ。
自律性は、「自分の行動や考え方を自己決定できているという感覚」で、自分を信じることで、目の前にあってできることを1つひとつ進め、自分の強みを進化させる動機付け要因となる。自分を信じる力は、何ごとにも優るエネルギーを引き出す。
誰も助けてくれない。たった1人。その状況でも、「これでよし」と自分の行動を決められる「自律性」なくして、世界では太刀打ちできない。
以前、ある雑誌で別の連載をやっていた時に、企業のトップや新しいことを成し遂げた方たちをインタビューさせていただいたのだが、そのほとんどの方たちが、高い自律性を持っていた。
特に、「こりゃすごい!」と感動したのが、美容家のたかの友梨さんだった。
たかのさんは、理容師の資格を得て、化粧品会社に勤めていたのだが、ある時に「フランスにはエステというものがあって、肌がきれいなる」と雑誌に書いてあるのを見た。当時、にきびに悩んでいたたかのさんは、友人と「フランスに行ってきれいになろう!」を合言葉に、日本を発った。
ところが、パリに着くと友人が妊娠していることが分かり、すぐに帰ってしまった。フランス語はおろか英語も分からないのに、見知らぬ土地で一人取り残された。でも、どうにかしてエステというものを見てみたい。
そこで、「お土産屋さんに行けば、日本人がいるかもしれない」と考え、毎日、お土産屋さんに通ったそうだ。
「日本人らしき人と見つけると、“エステってどこにありますか?”ってひたすら話しかけたの。でも、みんな知らなくて、『見たことも聞いたことも食ったこともない』って言われてしまって。でも、おカネもないし、それでもどうにかならないかって食い下がった。そしたら、美容ツアーを案内したことがある通訳を知っている、って人を見つけたの。で、紹介してもらって、その通訳を訪ねていったら、その人がパリの美容協会の会長さんと面識があるからと言って、会わせてくれた。そうしたら今度はその会長さんが、美顔器の会社を経営するサロンがあるからと連れて行ってくれたんです」
「せっかくたどり着いたので、どうにか潜り込こんでエステの技術を盗んでやろうと思ってね(笑)。『掃除でもなんでもさせてください』っていって頼みこんだ。私は日本で理容師をやったり、ネイルの技術なんかも習得したりしていたので、サロンが忙しそうな時にちょっと手伝うなんてことも積極的にやったの。そしたら、とても喜んでくれてね。それで自分の持っている技術を最大限に生かして、必死に勉強もして、何とか溶け込んで。それで技術を教えてもらったんです」
何か困難にぶつかった時も、「自分には無理!」と最初からあきらめるのではなく、自分の頭で考え、自分の決断、感覚を信じて踏み出す力。不完全な状態にあるという自覚を持ちながらも、その時にベストと思える答えを探り出す。ベストでなくとも、ベターでも構わない。いずれにしても、「これでよし!」とその時に思える行動を取れる覚悟。これこそが、自律性であり、グローバル人材に求められる力だと思う。
今の日本の英語至上主義には殺気すら感じるので、何度も繰り返すが、英語は話せた方がいい。日本のこれまでの英語教育は、見直した方がいい。だが、「グローバル人材の育成=英語教育の強化」じゃない。
グローバル人材の育成はすぐに役立つスキルや技術を求めることでもなければ、TOEICだの、TOEFLだの、既存の箱の中で評価するものでもない。どうすれば、考える力をつけられるのか? どうすれば、自律性を高められるのか? どうすれば、異国の文化、価値観が異なる集団の中でも、認められる日本人としてのアイデンティティーを育てていけばいいのか?
そのことを教育する側も、とことん考えねばならない。その作業を「グローバル人材の育成が急務だ!」と叫んでいる人たちは、省いている。そう思えてならないのである。
ちなみに、私はアメリカでミドルスクールに通っている時に日常会話は問題なく話せるようになっていたにもかかわらず、長めの本を読んで理解することができなかった。
で、読書をする授業で1人ひとり感想を披露しなくてはいけなくて、みんなの前で“貝”になったことがあった。その時の先生が、「この本を読んで、あなたが今、デキそうなことを私に見せて」と言った。で、私はその本が、歌手の人(誰だったのか、覚えていません)の伝記ということだけは理解できていたので、歌を歌った。
当時(といっても、渡米する前)、日本ではアグネス・チャンが人気で、私はいつもプロマイドを持ち歩いていたので、それをみんなに見せて、アグネス・チャンのモノマネで歌った。心臓が飛び出そうなほど、恥ずかしかった。ところが、歌い終わった時、みんなが拍手してくれて、笑ってくれて、先生が「Good job!」と言ってくれた。
感想発表の場を、アグネス・チャンの歌で乗り切るなんて、あり得ない話かもしれない。でも、とても、うれしかった。「Good job!」って一言に救われた。それから私は、英語の本を読む努力を必死にした。もっとちゃんと読みたいと思ったから。ちゃんと感想を言いたいと思ったから。
自律性、すなわち「自分の行動を信じる力」は、他者の寛容な受け止めで養われる。今の日本に、一番欠けているのって、この寛容さなのかもしれない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20130610/249390/?P=5&nextArw
かっこわる……。いやいや、申し訳ない。だが、見た途端にそう思ってしまったのだから仕方がない。
スーパー・グローバル・ハイスクール構想を打ち出したのは、政府の「教育再生実行会議」(座長・鎌田薫早稲田大総長)。
「徹底した国際化を断行し、世界に伍(ご)して競う大学の教育環境をつくる」ことを目指し、外国語教育に熱心な高校を「スーパー・グローバル・ハイスクール」(仮称)に指定。小学校での英語の導入などを提案し、世界で活躍できる人材の輩出を目指して「今後10 年で世界大学トップ100に10校以上」との目標も定めた。
提言書によれば、「スーパー・グローバル・ハイスクール」とは、
(1)英語教育を重視したカリキュラムを実施している
(2)英語を母国語とする教員を採用している
(3)海外留学に実績がある
などの条件を見たしている高校で、政府が財政的に支援することが検討されるのだという。
流行語と化したグローバル人材
右を見ても、左を見ても、グローバル、グローバル。「グローバル人材の育成が欠かせない!」
「グローバル人材を輩出する教育を徹底せよ!」
「我が社では、グローバル人材を求めています!」
などなど。
グローバル人材なる言葉は、今や流行語だ。
ちょうと今から1 年半ほど前、「グローバル人材」についてコラムを書いた(関連記事:“グローバル人材”を渇望する企業の見当違い)。
当時、この言葉を使うのは主に企業の経営者だった。かなり乱暴にまとめると、(1)英語が話せなければ仕事にならない(2)ライバルは国内だけでなく、中国、韓国など世界中にいると思え!(3)日本でしか通用しないような人は、もう要らない──の3つが、多くの大企業の経営者や人事部の採用担当の方々が、「グローバルな人材」について述べているコメントだった。
で、今。「グローバル人材」という言葉が、会社から大学、大学から高校、さらには小学校へと波及している。
しかも、「グローバル人材の育成=英語力の強化」となっている。
何かおかしい……。確かに、英語教育は見直した方がいい。何しろ「なんでニッポン人は、中学、高校と6年間も英語を習っているのに、英語が下手くそなんですか~?」と、苦言を呈したくなるくらい、日本の英語教育は使えない。
だから、英語教育改革はやった方がいい。いや、むしろやるべき課題だ。
でも、政府が進めようとしているのは、「グローバル人材がいない」、「グローバル人材の育成ができていない」という社会のニーズ、あるいは企業のニーズに応えるための英語教育改革である。
「徹底した国際化を断行し、世界に伍(ご)して競う大学の教育環境をつくる」――という大名目の下に進められている。
「グローバル人材の育成=英語力の強化」なのか?
楽天やファーストリテイリングをはじめ、英語を社内の公用語にしたり、新卒採用の条件にTOEICのスコアで基準を設けたりしている会社も増えている。「キャリア官僚」の採用試験でも、2015年度(2016年度入省)からTOEFLなどの民間の英語試験を採り入れるとの報道もある。だが、いったいどれだけの企業がグローバル人材を、求めているんだ? そもそもグローバルな人材を育成するって、どういうことなのだろうか?
少なくとも私には、「グローバル人材の育成=英語力の強化」とは思えない。そこで今回は、「グローバル人材の育成に必要なこと」について考えてみようと思う。
まずは、経済産業省が行った「大学におけるグローバル人材育成のための指標調査」の結果から紹介する。この調査では、企業におけるグローバル人材の定義を次のように規定している。
(1) 現在の業務において他の国籍の人と意思疎通を行う必要がある
(2)意思疎通を英語で(あるいは母国語以外の言語で)行う必要がある
(3)ホワイトカラー職(※)の常用雇用者である
※ ここで「ホワイトカラー職」とは、管理的職業従事者、専門的・技術的職業従事者、事務従事者、販売従事者をさす。
この定義に基づき、企業を対象にヒアリングとアンケート調査を行った(実施期間2012年2月、5000社に送付し、回答のあった841社が対象)。さらに、アンケート結果に基づき、独自の手法で企業全体の総常用雇用者数に占める、2017年度のグローバル人材率の平均値なるものを出している。
その結果、2012年時点で、4.3%だったグローバル人材率は、2017年には8.7%と2倍近くに上昇。企業規模別には、「299人以下」の企業が5.6%から7.2%、「300人~1999人」の企業が6.9%から8.7%、「2000人以上」が11.0%から17.8%と、企業規模が大きいほどグローバル人材率が高く、5年後には全体的に高まる傾向にあった。
ちなみに、「どんな状況でも適切なコミュニケーションができる素地を備えている英語力を、入社前に身に付けて欲しい」という企業に限ってみると、2000人以上の大企業で2012年時には26.1%だったものが、2017年には42.9%と半数近くにまで上昇するとの結果が示されている。
つまり、「大企業に入るには、英語力を高めておくことは避けては通れない」とも受け取れる内容だ。
だが、その一方で、グローバル時代における新卒社員に求められる能力はというと、上位3位を、「主体性」「規律性」「好奇心・チャレンジ精神」が占めた。
「2000人以上」の企業に限ってみても、「主体性」が91.3%でトップ。次いで、「好奇心・チャレンジ精神」(90.1%)、「規律性」(81.3%)となり、「TOEIC730点以上相当」を必要としたのは、わずか27.3%。アンケートに提示した17の能力のうち最下位だったのである。
自由意見でも見られた企業の冷静な姿勢
ヒアリング結果でも、必ずしも英語力を求めていない意見が見られた(以下、抜粋)。・新卒採用の場合、英語スキル(スコア)を重視しているのではなく、前向きな姿勢があるか、吸収力があるか、打たれ強いか等の資質を重視する。(証券D社)
・語学力が高いことは良いことだが、それ以上に人物をみるようにしている。(消費財A社)
・TOEIC が高得点だからといってビジネスシーンで英語が使えるとは限らない。ビジネスで使う英語力は入社後に研修やOJT で磨くことになる。(電気機器F社)
正直、この結果をみてホッとした。私自身、英語よりも「伝える中身」を持つことの方が重要だと思っていたし、企業の方たちと話すと、海外で仕事経験のある人ほど、「英語ができるに越したことはないが、できるからといってグローバル人材にはなり得ない」と考えている人が多い、という印象を持っていからだ。
と、こういうことを書くと、すぐに、
「何、分かったようなこと言ってるんだ。英語ができないことには、海外で仕事なんかできないぞ!」
「コミュニケーションを取れなきゃ、信頼だってされない」
「スピードが要求される今の世の中で、英語ができないことで失うものの大きさが分かってない!」
などと、口をとがらせる人たちがいる。
なので、何度も書くが、英語ができて悪いことなど1つもない。海外で仕事をするのに英語はできた方ほうが楽だし、いろいろな意味で、最初のハードルが下がる。だが、昨今の英語至上主義は、ちょっと異常だ。
大反発をくらうこと覚悟で、意地悪な言い方をすると、「それって仕事ができないことを、ただただ英語ができないからと言い訳にしているだけじゃないんですか?」などと言いたくなるほど、今のグローバル人材育成の流れは、英語力が特化されて、短絡的になっていないかと思うのである。
米メジャーリーグで活躍した野茂英雄さんは渡米する際に、「ところで野茂さんは英語が話せるんですか? メジャーリーグのベンチで英語が話せないとイジメに遭うかもしれませんよ」と記者から質問された。
それに対して彼は「僕は英語を覚えるためにアメリカに行くわけじゃない。野球をやりに行くんです」と答えた。
そして渡米後、アメリカ人にとって最も有名な日本人になるほど、彼は大活躍した。
世界で使えない人は、日本でも使いものにならない。「日本でしか通用しない人」と思われている人は、実際のところ、日本でも通用していないんじゃないだろうか?
もし、ホントにグローバル人材が日本にいないとするならば、日本中が使えない人たちであふれているか、もしくは、英語がたまたまできないというだけで、グローバル人材という枠からはじき出されてしまっているか、そのどちらかだ。
本当に日本で働く以上に求められることとは?
ただ、1つだけ日本で働く以上に、繰り返すが、「日本で働く以上に」、必要なものがあるとするならば、「たった1人でも、完全なるアウェーでも、どうにかしてその場で、限られた資源の中でベストと思える答えを探り出す力」。自律性(autonomy)だ。自律性は、「自分の行動や考え方を自己決定できているという感覚」で、自分を信じることで、目の前にあってできることを1つひとつ進め、自分の強みを進化させる動機付け要因となる。自分を信じる力は、何ごとにも優るエネルギーを引き出す。
誰も助けてくれない。たった1人。その状況でも、「これでよし」と自分の行動を決められる「自律性」なくして、世界では太刀打ちできない。
以前、ある雑誌で別の連載をやっていた時に、企業のトップや新しいことを成し遂げた方たちをインタビューさせていただいたのだが、そのほとんどの方たちが、高い自律性を持っていた。
特に、「こりゃすごい!」と感動したのが、美容家のたかの友梨さんだった。
たかのさんは、理容師の資格を得て、化粧品会社に勤めていたのだが、ある時に「フランスにはエステというものがあって、肌がきれいなる」と雑誌に書いてあるのを見た。当時、にきびに悩んでいたたかのさんは、友人と「フランスに行ってきれいになろう!」を合言葉に、日本を発った。
ところが、パリに着くと友人が妊娠していることが分かり、すぐに帰ってしまった。フランス語はおろか英語も分からないのに、見知らぬ土地で一人取り残された。でも、どうにかしてエステというものを見てみたい。
そこで、「お土産屋さんに行けば、日本人がいるかもしれない」と考え、毎日、お土産屋さんに通ったそうだ。
「日本人らしき人と見つけると、“エステってどこにありますか?”ってひたすら話しかけたの。でも、みんな知らなくて、『見たことも聞いたことも食ったこともない』って言われてしまって。でも、おカネもないし、それでもどうにかならないかって食い下がった。そしたら、美容ツアーを案内したことがある通訳を知っている、って人を見つけたの。で、紹介してもらって、その通訳を訪ねていったら、その人がパリの美容協会の会長さんと面識があるからと言って、会わせてくれた。そうしたら今度はその会長さんが、美顔器の会社を経営するサロンがあるからと連れて行ってくれたんです」
「せっかくたどり着いたので、どうにか潜り込こんでエステの技術を盗んでやろうと思ってね(笑)。『掃除でもなんでもさせてください』っていって頼みこんだ。私は日本で理容師をやったり、ネイルの技術なんかも習得したりしていたので、サロンが忙しそうな時にちょっと手伝うなんてことも積極的にやったの。そしたら、とても喜んでくれてね。それで自分の持っている技術を最大限に生かして、必死に勉強もして、何とか溶け込んで。それで技術を教えてもらったんです」
何か困難にぶつかった時も、「自分には無理!」と最初からあきらめるのではなく、自分の頭で考え、自分の決断、感覚を信じて踏み出す力。不完全な状態にあるという自覚を持ちながらも、その時にベストと思える答えを探り出す。ベストでなくとも、ベターでも構わない。いずれにしても、「これでよし!」とその時に思える行動を取れる覚悟。これこそが、自律性であり、グローバル人材に求められる力だと思う。
英語至上主義者たちが省いているもの
それは、既成の知識や常識の網から逃れる営みでもある。今の日本の英語至上主義には殺気すら感じるので、何度も繰り返すが、英語は話せた方がいい。日本のこれまでの英語教育は、見直した方がいい。だが、「グローバル人材の育成=英語教育の強化」じゃない。
グローバル人材の育成はすぐに役立つスキルや技術を求めることでもなければ、TOEICだの、TOEFLだの、既存の箱の中で評価するものでもない。どうすれば、考える力をつけられるのか? どうすれば、自律性を高められるのか? どうすれば、異国の文化、価値観が異なる集団の中でも、認められる日本人としてのアイデンティティーを育てていけばいいのか?
そのことを教育する側も、とことん考えねばならない。その作業を「グローバル人材の育成が急務だ!」と叫んでいる人たちは、省いている。そう思えてならないのである。
ちなみに、私はアメリカでミドルスクールに通っている時に日常会話は問題なく話せるようになっていたにもかかわらず、長めの本を読んで理解することができなかった。
で、読書をする授業で1人ひとり感想を披露しなくてはいけなくて、みんなの前で“貝”になったことがあった。その時の先生が、「この本を読んで、あなたが今、デキそうなことを私に見せて」と言った。で、私はその本が、歌手の人(誰だったのか、覚えていません)の伝記ということだけは理解できていたので、歌を歌った。
当時(といっても、渡米する前)、日本ではアグネス・チャンが人気で、私はいつもプロマイドを持ち歩いていたので、それをみんなに見せて、アグネス・チャンのモノマネで歌った。心臓が飛び出そうなほど、恥ずかしかった。ところが、歌い終わった時、みんなが拍手してくれて、笑ってくれて、先生が「Good job!」と言ってくれた。
感想発表の場を、アグネス・チャンの歌で乗り切るなんて、あり得ない話かもしれない。でも、とても、うれしかった。「Good job!」って一言に救われた。それから私は、英語の本を読む努力を必死にした。もっとちゃんと読みたいと思ったから。ちゃんと感想を言いたいと思ったから。
自律性、すなわち「自分の行動を信じる力」は、他者の寛容な受け止めで養われる。今の日本に、一番欠けているのって、この寛容さなのかもしれない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20130610/249390/?P=5&nextArw