2021年1月28日木曜日

『春香伝』の引用原典「戒石銘」

『春香伝』の引用原典も、、、中国「戒石銘碑」にあるとにらみました。おそらく朱子著「資治通鑑綱目」第13、陶懋炳著「五代史略」(この中で、「容斎随筆」巻1・「戒石銘」を引用)あたりから伝わったのかも。 ①乾徳3年(965):後蜀孟昶 24句96字「戒諭辞」 ②大平興国8年(983):北宋太宗 「戒諭辞」から4句16字抜出の「戒石銘」州県の官史に示す。 ③紹興2年(1132):南宋高宗 北宋太宗御製の「戒石銘」を黄庭堅の書体で石に刻ませ、州県に頒布し官史の戒めとして用いた。 国指定史跡「戒石銘」 | 二本松市公式ウェブサイト (nihonmatsu.lg.jp) 「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」 (1749年) (以下引用) 「戒石銘の原典は、五代時代、後蜀の君主・孟昶(もうちょう)が乾徳3年(965年・日本年号康保2年)に作った、24句96字の「戒諭辞」に求められます。 さらに、戒石銘の起源は、北宋時代の君主・太宗が大平興国8年(983年・日本年号永観元年)4月に、この戒諭辞から4句16字を抜出し、戒石銘として州県の官史に示したことが記されています。また、南宋時代の君主・高宗は、その太宗御製の戒石銘を紹興2年(1132年・日本年号長承元年)6月に、黄庭堅(太宗御製の戒石銘を揮毫した名筆家)の書体で石に刻ませ、州県に頒布し官史の戒めとして用いられたことも記されています。このことから、中国では、日本の平安時代中頃に戒石銘が誕生し、平安時代末頃には広く各州県の門前に、戒石銘碑が建てられたことがわかります。」 「戒石銘碑」拓本(拡大写真) | 二本松市公式ウェブサイト (nihonmatsu.lg.jp)