病院にいた時、いきなり窓ガラスが割れそうな勢いで、
ぐらぐらとゆれ出し、ガシャーン。床にもひびが入るんじゃないかと。
みな顔は青ざめ、悪い乗り物酔いをしたかのよう。
そして、お金も払わず、そのまま帰宅となった。
外に出てみて、まだ現実に気づいてなかった私は、近くの大型スーパーに行って物を買おうとしていた。ところが見ると中が真っ暗。こちらに向かってきた誰かに「品物が倒れて、もう閉店している」といわれて、仕方なく、とぼとぼ道を歩いていった。
すべての信号機が止まっていて、それでも車は動いていた。
その間も余震が来たりして、途中で見かけた人に、
非難しなくても大丈夫なのか、思わず聞いていた。
道は水道管が破裂し、洪水状態。両隣の人が玄関に立っていた。
非難せずに大丈夫なことだけ確認して、近くの個人商店の八百屋に向かい、
バナナとみかんだけ買った。こういうときにスーパーはまったく役に立たない。
そうこうしている内に薄暗くなってきて、小さなリュックに水と携帯とお金を入れ、懐中電灯とラジオを側に置いて、布団に横たわっていた。その間も余震は続いていた。
ガスは使えたので、暖かいものを食べることもできたが、真っ暗な中で、何もする気になれず、横たわってラジオを聴いて、時折、買ってきた果物をかじっていた。
夜11時頃、ようやく電気が入り、温かいお茶を飲んだ。
同時にテレビをつけると、気仙沼の全域が火の海になっているのを見て、これは尋常ではないと悟った。
西から東に行く電車はすべて豊橋でストップ。多くの人が足止めを食っていた。
2日後、電車が通常運行になって間もなかった。本来なら午後に出かける予定だったが、午前に駅へ向かった。その間にも余震が起こり、ほかの路線は大いにダイヤが乱れ始めていた。ゆっくりする間もなく、あわてて電車に飛び乗り、それきり。
「停電もない、食べたいものは何でも手に入る生活」
ガソリンスタンドは数珠つなぎ、水、納豆、牛乳、豆腐、食パン、インスタント食品がなくなったスーパーなんて、おとぎ話にしか聞こえなかった。13日以来、外出から帰ってきた際は、外套を外で払い、窓を一切開けないというから、驚きだ。
その間、入ってくる国内の情報は、「今すぐ危険というわけではない」の一点張り。
まったく当てにせず、毎日毎日、海外からの情報ばかりを見て、風向きとにらめっこしていた。
8月、ようやく戻ると、部屋には割れたプラスチックがそのまま残っていて、
一瞬、あの日にもどったような気持ちにさせられた。
今年の2月に、病院で払えなかったお金を払い、ようやく収拾がついた感じがして、すがすがしい気持ちだった。
でも、そうではなかった。
3月のある日、図書館で、「関東大震災コーナー」を見つけた時だった。
ギクッとして、とても目を向けられない気がした。
そう、たぶん「停電もない、食べたいものは何でも手に入る生活」を送っていた人たちにとって、「関東大震災コーナー」は所詮、実感のわかない客観視できるものなのだろう。
だけど、あの日を体験した人にとってはそうではない。人間の記憶がいやなことを忘れ去ろうとするように、なるべく目をそむけたくなるようなことなのかもしれない。
たぶん、今でもそこにいる人たちにとっては、現実への非直視と不安の混じったような生活なのではないかと思う。現実を直視し始めたら、今自分がいる場所、食べているものすべてが、不安材料だ。だから不安だけれども、気にしないようにしている、というのが今の姿だと思う。
よく行く場所の線量を図ってもらい、安堵したのを覚えている。
たいして精密度はなくても、とにかく分かれば人心地付くのである。
できれば日本全国の農作物や水産物に、線量値シールが付いていると良いのにと思うくらいである。そうすれば地域に拘わらず、本当に安全なものであることが確認できるからである。
除染は根気のいる作業だけれど、なるべく効率よく進むことを願う。
文化事業での電子書籍はすでにあるみたいだ。
日本全国どこでも、「不安だけど気にしない」から「安全だから気にしない」に変わることを祈るのみである。