2014年11月17日月曜日

一億人の昭和史1月号(1977.1)

http://d.hatena.ne.jp/dempax/00000914 『1億人の昭和史10/不許可写真史』毎日新聞社,1977/01/01 p.62 - p.65 「'日本陸軍が開設した'慰安所」に使われた麻生徹男氏【1910/01/07生 - 1989/07/11没】撮影写真の説明文を読み比べ,敗戦後30年の時点での「慰安所」「慰安婦」認識を検討する材料としたい 【参考】麻生徹男「元軍医の証言」id:dempax:19380207 手元にある麻生徹男氏撮影写真資料を使った本を古い順に挙げると 【A】千田夏光『'声なき女'八万人の告発--従軍慰安婦』双葉社,1973/10/20 【B】『1億人の昭和史10不許可写真史』毎日新聞社,19751977/01/01[*1] p.62-p.65の写真9点の内, 5点は麻生徹男撮影の写真 【A'】千田夏光『従軍慰安婦(正篇)』三一新書,1978/09/30 (A,A'に写真は掲載されていないが,写真についての証言がある) 【C】高崎隆治編・解説『十五年戦争重要文献シリーズ【1】軍医官の戦場報告意見集』不二出版,1990/02/20 ISBN:9784835010465 p.113-p.122に「付録2 写真資料10点 麻生徹男氏蔵(写真説明も麻生氏)」として手書き説明付きで一頁1枚の写真計10点を紹介 【D】金一勉編著『戦争と人間の記録/軍隊慰安婦』徳間書店,1992/02/29 新装初版 巻頭白黒写真頁p.2上下 p.4上 p.7上下 計5点が麻生徹男氏撮影写真,p.59-p.65麻生徹男「元軍医の証言」は【E】『上海より上海へ』p.41-p.46「証言」と同じ内容[*2] 【E】麻生徹男『上海より上海へ--兵站病院の産婦人科医』石風社,1993/08/15 p.14-p.19に【C】の10点とトリミング前の1点,計11点を「■写真集 戦線女人考」に収録,【C】とは配列異なり,説明文も微妙に異なっている(【E】写真説明にはゴシックの標題があるが【C】には無い等), 【C】の説明文が旧かな使い(「野戰建築中隊」「楊家宅と云つた部落の跡があつた」等)であることから,【C】の方が古いと推測できる. 配列は【E】が慰安所の場所毎に纏められており分りやすい 【F】WAM『日本軍「慰安婦」問題 すべての疑問に答えます』合同出版,2013/11/05 【E『上海より上海へ』】の順に従って写真に番号と「(標題)」を付けておく 【1】p.14上「身体検査」【3】の身体検査会場となる小学校前での軍医と看護婦の記念写真 【3'】p.14下「身体検査にむかう慰安婦(トリミング前)」…この写真は【C『戦場報告意見集』】には無い 【2】p.15上「診察台」 【3】p.15下「身体検査にむかう慰安婦」の中央8人の女性の後ろ姿拡大,【3'】の写真の建物をトリミングした写真,【C】にはトリミング前の【3'】は無い 【4】p.16上「(楊家宅)陸軍慰安所の立札」 【5】p.16下「(楊家宅)慰安所規定」 【6】p.17上「楊家宅慰安所」 【7】p.17下「(楊家宅)慰安所入口」以上【4】【5】【6】【7】は楊家宅慰安所関連の写真 【8】p.18「衛生サック・「突撃一番」」 【9】p.19上「民営の軍慰安所」 【10】p.19下「(民営の軍)慰安所入口」【9】は【10】の前での軍医と看護婦の記念写真 10枚の写真の内,【B】『不許可写真史』に掲載されているのは【2】【3】【5】【6】【10】の5枚である。(以上:引用) 実際の『1億人の昭和史10/不許可写真史』にある写真は以下の通り。
(「"日本陸軍が開設した"慰安所」『1億人の昭和史10/不許可写真史』毎日新聞社,1977/01/01 p.62 - p.65全4頁に掲載写真、13年1月江湾鎭に慰安所第一号、北平の芸者、カフェー赤玉会館、南京の日本人従軍慰安婦/13年1月上海楊家宅の軍直営の慰安所第1号、慰安所規定、慰安所に到着した朝鮮女性達、婦人科検診台、軍帽をかぶった慰安婦:9カット) 「従軍慰安婦が始めて生まれたのは昭和十三年一月十三日か十四日かとされるが、はっきりした日時は不明である。ただ第一号慰安所の場所が上海の楊家宅だったことだけははっきりしている。兵站司令部、すなわち軍がそこで売春所を直営で開業したのである。(中略)昭和十三年四月から軍直営は体面上このましくないと、すべて御用商人に経営させることになるが、検診と管理はすべて軍が担当した。(p62-63)「慰安所規定一、本慰安所には陸軍軍人軍属(軍夫を除く)の外入場を許さず」(p64) p62の13年1月江湾鎭に開設された慰安所と上海楊家宅の軍直営の慰安所第1号が同じ場所の写真かは疑問。江湾鎭=上海(?) いづれにせよ、「慰安所規定一、本慰安所には陸軍軍人軍属(軍夫を除く)の外入場を許さず」この言葉がすべてを物語っている。 つまり軍が関連していたか否かでは、黒です。しかし、日本では昭和33年まで売春(赤線)が公に認められていたこと、そして、韓国では朝鮮戦争の米軍相手、70~80年代の国策的妓生観光、そして2000年代以降、梨泰院から米軍施設が移動したこと、588をはじめとする全国赤線地帯がまともに取り締まられるようになったことなど、これによって、かなり売春に対する目は厳しくなったものの、今の視点だけで当時の慰安婦云々というのは筋違いな気がする。 で、強制云々といわれますが、そりゃ当時お金がない家の子女であれば、ありうる話だったことで、朝鮮においても裕福な家の子女が慰安婦になったケースは皆無だったと思われる。(貧困と売春の関係、近代の売春婦の生態は『春駒日記』に明らか)、それは基本的に今も変わらない気がする。つまりは経済・社会問題という視点を持たないとあまり意味がない気がする。河野談話を取り消せとか、慰安婦なんてなかったとかいうのは論外だが、それ一点で鬼の首をとったかのような態度もどうかと思われるのが結論です。

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